アチとアイス

2012年3月27日 (火)

アチとアイス

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あれはいつの事だったか

 

春の残り香を洗い流すような5月の雨を避けるように、アチたちは走っていた。

幼い右手に喰いこむ白いビニール袋の重さと、ぬかるんだ田んぼのあぜ道が吐きだした黒い泥水。

いつもならなんでもないような事が、アチの気持ちを不安にさせる。

「こんな事なら、おウチでお留守番してるんだった・・・」

遠くに響くゴロゴロという雷の音が、まるで地面の奥底から聞こえてくるような気がして、アチは思わず自分の足元を見た。

お気に入りの赤い雨合羽も、今は泥で汚れて可愛くないなあ・・・

そう思った次の瞬間、おそろいの赤い長靴がふわりと地面から離れ、真っ黒い水たまりに映る自分の顔。

ばしゃあっ

走りながらバランスを崩したアチの体は、見事に全身泥水だらけになった。

「・・・う・・うわあぁぁあああんっ」

先ほどまでかろうじて抑え込んでいた不安は、お気に入りのビー玉と一緒にポケットから転がり落ちてしまった。

「・・・おねえちゃああんっ、おねえちゃあああんっ!」

そう呼ばれて、少し先を走っていた青い雨合羽の少女が振り返る。

少女は少し驚いた顔をしたが、すぐにいつものように軽くため息をつくと、いつものように、泣き虫で甘えん坊の妹の傍へかけよった。

「もうっ、だから言ったのに」

少女は少し口をとがらせたが、別に本気でアチを責めているわけではなかった。

おつかいについてくると言った妹を本気で止めなかったのは自分だし、なにより、アチの面倒を見るのは姉である自分の務めなのだと、いつのころからか、自然とそう思っていた。

後になって思えば、あれは共働きだった両親の巧みなスリコミだったのかもしれないが、少なくともこの時はまだ、自分の役割に疑問を感じる事は無かった。

少女はアチの両脇を抱えて立たせると、その汚れた顔を力強くぬぐった。

そしてグニっとアチの鼻をつまむと、軽く下に引っ張りながら離す。

アチの鼻がプンっと可愛らしく鳴ると、同時にアチも涙目で笑った。

アチの鼻からつつーと垂れた鼻水を見て、少女もおかしくなって思わず笑った。

「さ、いこっ」

少女はアチの手を力強く握ると、まっすぐと続く雨の田んぼ道を見据えた。

「あ・・・」

降り注ぐ無数の水線の中、再び走り出そうとする少女を、アチの鼻声がさえぎった。

「アイス・・・」

見れば、先ほどまでアチの小さな腕に吊るされていた白いビニール袋がどこにも無かった。

アチは、うっすらと自分の掌についたビニール袋の跡を眺めがら、しばらく黙っていた。

 

                         つづく

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